目次

日本三大湖

水資源の豊富な島国の日本には、河川の他、湖も多く、中には巨大な湖も。
そんな湖の中で広さを誇る日本三大湖が、

1.琵琶湖(滋賀県)
669.26km2

2.霞ヶ浦(千葉県・茨城県)
220km2

3.サロマ湖(北海道)
152km2

です。


琵琶湖(滋賀県)

琵琶湖(びわこ)は、滋賀県にある日本最大の面積と貯水量を持つ湖。一級水系「淀川水系」に属する一級河川で、河川法上の名称は「一級河川琵琶湖」。国土交通大臣から委託を受けて滋賀県知事が管理を担う。湖沼水質保全特別措置法指定湖沼で、ラムサール条約登録湿地でもある。
古くは淡海・淡海の海・水海・近江の海・細波・鳰の海などとも呼ばれ、「びわ湖」「びわこ」と表記されることもあるほか、「Mother Lake」の愛称や「近畿の水瓶」の別称で呼ばれることもある。
約440万年前に形成された古代湖であり、40-100万年ほど前に現在の位置に移動してきた。内湖を含む多様な地形や多数の固有種を含む豊かな生態系をもっているが、近現代の開発により失われたり減少したりした地形や種もある。古くから近畿地方の水運・水利・漁撈における役割を担い、近江八景などをとおして景勝地としても知られ、作品の題材となることも多いほか、環境保全活動も盛んにおこなわれている。

地理

琵琶湖の面積は669.26平方キロメートルで、滋賀県の面積の6分の1を占め、日本最大である。貯水量は275億トンで、こちらも日本一である。湖底が最も深い水域は竹生島と安曇川河口の間にあり、2005年には104.1メートルの最大水深が計測された。

最狭部に架かる琵琶湖大橋を挟んだ北側の主湖盆を北湖(太湖)、南側の副湖盆を南湖と呼ぶ。面積58平方キロメートル・平均水深4メートルの南湖に対し、北湖は面積623平方キロメートル・平均水深41メートルであり、湖水の99パーセントは北湖に蓄えられている。一方、湖底地形から見ると、北湖盆、中湖盆、南湖盆に分けられ、北湖盆と中湖盆の境界は沖島北方付近で、鞍状の湖底地形が存在している。

湖岸

琵琶湖湖岸の構造は多様であり、そのため後述するように生物も多様である。傾斜は西岸は急で東岸は緩やかな傾向にあり、下記の山地系湖岸を除く77パーセントは、流入河川の造営力を受けた平野系湖岸である。また、底質と植生から次の3つに分類することができる。

岩礫型湖岸
北湖北岸と長命寺付近の山地系湖岸。岩や岩礁が主体。

砂質型湖岸
北湖の多くを占める。小礫や砂が主体。

砂泥型湖岸
最も植生が豊かであり、泥の堆積の発達に伴い、植物群落が発達する。

湖岸域には陸上生物圏と水中生物圏をなだらかに繋ぐ推移帯が広がり、生物多様性への寄与や水質浄化機能といった様々な役割を果たしてきた。しかし第二次世界大戦後、大規模な護岸工事などにより人工湖岸が増え、推移帯としての面積は大幅に減少した。

河川

琵琶湖には117本の一級河川を含む400以上の流入河川があり、周囲の山地からの流れを源流とする。主な流入河川としては、湖南・湖東では野洲川・日野川・愛知川などが、湖北では姉川・高時川・余呉川などが挙げられる。湖西には大きな河川は安曇川しかなく、ほかは比良山地からの小河川である。この内、野洲川と安曇川以外は50キロメートル未満で、急勾配・出水のしやすさ・渇水の多さを特徴とする。中世後期以降、一部の河川は天井川化しており、それにともない湖岸の土砂堆積状況が変化し、河口域では三角州が発達したり逆に陸地が後退するなどしている。

流出河川は瀬田川のみであり、宇治川、淀川と名前を変えて、大阪湾(瀬戸内海)へ至る。瀬田川には、琵琶湖の水位調整と下流域の治水・利水のために瀬田川洗堰が設けられている。琵琶湖からの流出経路は、これに琵琶湖疏水(第一、第二)および宇治発電所水路を加えた計4か所である。

内湖

昭和初期ごろまで、琵琶湖の周囲には大小40あまり、総面積29平方キロメートル(1940年時点)の内湖があった。これらの内湖は、繁茂するヨシなどにより河川より流入する水を浄化する機能や、魚類の産卵・生育の場、あるいは堆積した泥による肥料の提供といった役割を担ってきた。また内湖は、今津や堅田といった津の発展において船溜まりとしての役割を果たしたほか、安土城や大溝城の立地にも影響を与えた。

しかし、琵琶湖の洪水防御のため1943年から始まった河水統制事業により、事業が終了する1952年までに平均水位が数十センチメートル低下したことや、これに前後して内湖の大半が干拓されたこともあって琵琶湖の自然は大きく変化し、固有の風致や生態系が大きく損なわれた。2013年現在残されているのは、近江八幡市の西の湖をはじめとする総面積4.25平方キロメートルの23内湖のみである。

2003年現在、滋賀県は一部の内湖を復元することを計画しており、生態系の回復や水質浄化が各方面から期待されている。

湖面の島

琵琶湖には沖島・竹生島・多景島の3島がある。沖島は近江八幡市の沖合い1.5キロメートルに位置する周囲6.8キロメートル・面積約1.53平方キロメートルの島で、淡水湖沼の有人島としては日本唯一である。
琵琶湖に浮かぶ湖上の猫島沖島(おきしま)

竹生島は長浜市の沖合6キロメートルに位置する周囲約2キロメートルの島、多景島は彦根市の沖合い5キロメートルに位置する周囲約600メートルの島である。竹生島と多景島には寺院があり、竹生島は西国三十三所や琵琶湖八景に含まれている。また、多景島から西に4キロメートルの地点には沖の白石がある。この他、草津市には、1978年ごろに着工された人工島の矢橋帰帆島がある。


霞ヶ浦(千葉県・茨城県)

霞ヶ浦(かすみがうら)は、茨城県南東部に広がる琵琶湖についで日本で二番目に大きい湖。湖沼水質保全特別措置法指定湖沼。「霞ケ浦」(大文字のケ)と表記することもある。西浦・北浦・外浪逆浦(そとなさかうら)・北利根川・鰐川・常陸川の各水域の総体であり、一部水域は千葉県北東部にも跨がる。河川法ではこの範囲を「常陸利根川」という利根川の支川としている。

国土地理院発行の「標準地名集(自然地名)」では「ケ(大文字)」を用いており、地名としては「霞ケ浦」が正式表記である。国が「ヶ(小文字)」を、茨城県が「ケ(大文字)」を用いる傾向にある。「霞ヶ浦・北浦」という表現のように事実上西浦のみを指して使われる場合も多く、定義が混在している。

霞ヶ浦は古代に「流海」(ながれうみ)か「浪逆の海」(なさかのうみ)と呼ばれ、中世に入って「霞の浦」と歌に詠まれていたが、鹿島灘の「外の海」に対して「内の海」ともいわれた。「霞ヶ浦」と呼ばれるようになったのは江戸時代になってからのことである。

地理

湖面積220.0平方キロメートルは日本第2位、茨城県最大。主な水域別の面積は次のとおり。

西浦:172平方キロメートル
北浦:36平方キロメートル
外浪逆浦:6平方キロメートル
常陸利根川:6平方キロメートル
なお、平野部に位置するため流域面積は2156.7平方キロメートルと広く、茨城県の面積の約3.5%を占める。水際線延長は249.5キロメートルで、これは日本最大面積の湖である琵琶湖(235.0キロメートル)の水際線延長を超える。平均水深は約4メートル、最大水深は約7メートル、年間流下量は約14億立方メートル、貯留量は約8.5億立方メートル。主な流入河川は桜川、恋瀬川、巴川、小野川など。

太平洋岸気候区にあるため、梅雨期と台風による降水が多く、冬は晴天が多く降水量が少ない。特に周辺では冬に「筑波颪(つくばおろし)」と呼ばれる強い北西の季節風が吹く。流域の年間平均降水量は約1,300ミリメートルで全国平均(約1,780ミリメートル)に比べると少なめである。

北には涸沼があり、南には利根川が流れ、北西には八溝山地の南端にあたる筑波山(標高877メートル)を擁している。周辺は、台地と低地が入り組んだ場所が多く、筑波山は周辺の最高点であるため潮来市など比較的遠く離れた場所でもよく望むことができる。西浦と北浦の間の大部分は、海抜30メートル程度の行方台地となっており、広大な農業地帯である。

元々は「浦」という名前が示すように海の入り江に由来し、砂州や河川堆積物によって出口を閉ざされたラグーンである。そのため、時期や場所によって塩分濃度に違いはあるものの、かつての湖水は塩分が混じる汽水であった。特に1950年代から1960年代には、下流の河川改修(浚渫)の影響で海水が遡上し、近年ではもっとも汽水化が進んだ時期だった。当時を知る人々にとって「汽水湖」という印象が強いのはそのためである。

しかし、1963年に治水と塩害防止を目的にして竣工した常陸川水門(逆水門)を利用することで淡水化が進行した(詳しくは霞ヶ浦の歴史を参照)。そのため、現在はほぼ淡水湖とかわらない状況にある。

西浦

面積約172平方キロメートル、海抜高度0.2メートル、最大水深7メートル。
狭義の霞ヶ浦である。土浦方面に伸びる水域を「土浦入(つちうらいり)」、石岡方面に伸びる水域を「高浜入(たかはまいり)」、この両者が交わる出島沖の広い水域を「三叉沖(みつまたおき)」と呼ぶ。他に、「江戸崎入(稲波干拓)」、「甘田入」、「大山入(余郷入)」などがあったが、昭和期の干拓事業により消滅した。羽賀沼、野田奈、西の洲、本新、八木などの干拓も行われ、湖水域は減少した。

稲敷市浮島の和田ノ岬、稲敷郡美浦村の稲荷ノ鼻、稲敷市古渡の堂崎ノ鼻は、霞ヶ浦(西浦)に伸びてできた砂嘴である。

北浦

面積約36平方キロメートル、海抜高度0メートル、最大水深7メートル。

潮来市の水原洲吠崎、鹿嶋市の爪木ノ鼻は北浦に伸びで出来た砂嘴である。

外浪逆浦

面積約6平方キロメートル、最大水深9メートル。浪逆浦を1893年に堤防で南北に仕切り、南が外浪逆浦。
内浪逆浦(うちなさかうら)は、外浪逆浦の北にあったが、昭和初期の干拓事業で農地となり消滅、現在は住宅地(潮来市日の出地区)となっている。

漁業

現在の霞ヶ浦で主に漁獲されるのはワカサギ・シラウオ・コイ・フナ・ウナギ・アユ・ボラ・レンギョ(ハクレンなど)・イサザアミなど。エビ・イサザアミ・ゴロ・コイなどの量が多く、またワカサギやシラウオなどは付加価値が大きいため、重要な魚種となっている。少量ではあるが、タナゴ亜科・クルメサヨリ・ウグイ・ドジョウ・スズキ(セイゴ)・ヒガイ・ソウギョ・ブラックバス・アメリカナマズ(チャネルキャットフィッシュ)・ペヘレイなども漁獲されている。ただ、特にブラックバスやペヘレイなどの魚種は現在のところほとんど商品価値がなく、あまり利用されていない。また、アユは最近になって漁獲されるようになっている。水揚げされたアメリカナマズ、ブルーギル、ブラックバス、ハクレンなどを用い、管理された原料・環境で魚粉が製造され養鶏飼料から始まり魚類の養殖飼料や有機肥料として利用されて地産地消品として有効利用されている。

全般的に漁獲量は1978年の漁獲量(17,487トン)をピークにして減少傾向が続いていて、1998年には2,000トン台に突入。2000年の漁獲量は2,416トンであった。魚種別に見ても減少傾向は変わらず、例えばワカサギは1980年代には1,000トンをこえることもあったが、90年代初頭には400 - 500トン前後となり、2000年の漁獲は51トンでしかない。シラウオも一時300トン前後と回復傾向にあったが98年ごろから100トン前後になり、2000年の漁獲量は95トンだった。また、漁獲量の約半分を占めるエビ・アミ類についても減少傾向にある。

サロマ湖(北海道)

サロマ湖(サロマこ)は、北海道 オホーツク海岸の北見市、常呂郡 佐呂間町、紋別郡 湧別町にまたがる日本最大の汽水湖。

表記については、佐呂間湖、猿澗湖などもあるが、現在ではカタカナ表記が一般的である。面積は約152km2で、北海道内で最も大きな湖であり、琵琶湖、霞ヶ浦に次いで日本で3番目に大きく、汽水湖では日本最大である。

湖名の由来は、アイヌ語の「サㇽ・オマ・ペッ」(ヨシが生える川)より。これは本来、流入河川の一つの佐呂間別川を指した地名であり、現在のサロマ湖の方はただトー(湖)と呼ばれた。

北海道北東部に位置し、網走国定公園に含まれる。

湖は東西に長くなっている。湖岸線を見ると1つの大きな湖盆に見えるが、湖底地形を見ると南岸東寄りから突き出たキムアネップ岬付近に浅い部分があり、これにより東西二つの湖盆に分けることができる。西の大きな湖盆には芭露川、計呂地川などが流れ込み、新湖口から流れ出る。東の小さい方の湖盆に流れ込む佐呂間別川は流入河川の中ではもっとも大きな川であり、河口にできた三角州上には佐呂間町浜佐呂間の市街が広がる。

長さ25kmにも及ぶ砂州(砂嘴ともされる)によって、オホーツク海と仕切られた潟湖であり、貴重な植物の宝庫である原生花園となっている。特に湖の東側に位置するワッカ原生花園は北海道遺産となっている。湖岸各地に景勝地があり、特に南東側の北見市常呂町栄浦は、湖に落ちる夕日の美しいことで知られる。

第1湖口、第2湖口には、流氷の進入を妨げるための、アイスブームが設置されている。

流入河川 : 佐呂間別川、芭露川、テイネ川、志撫子川、計呂地川、床丹川、オンネトカロチ川、トップウシベツ川、浪速川、岩見川、アネップナイ川、幌岩五線沢の川、ライトコロ川
流出河川 : なし。(海へ直接流出)

サロマ湖は、オホーツク海の湾入部が堆砂によって海と切り離された潟湖である。それより前の縄文時代には海と隔てる砂州がなく、サロマ湾として海水を湛えていた。湖が生まれたのは今から約千年前と言われる。

豊富な海産物を求めて古くから集落ができており、特に常呂町栄浦では続縄文時代からオホーツク文化、アイヌ文化と続く建物跡やそれに伴う遺物が狭い範囲から多量に発掘され、考古学的に貴重。東京大学文学部の施設がある。寛政10年(1798年)頃には、周辺に和人の番屋が置かれて漁業が営まれていたことが記録されている。

かつては恒久的な湖口を持たず、春になると砂州東端の鐺沸(とうふつ。地名はアイヌ語で「湖の口」を意味するトー・プッに由来)近くに湖口(こぐち)が開き、秋になると漂砂で閉塞していた。湖水位の上昇は沿岸に湿地帯を多く生じさせ、増水時には氾濫被害なども生じることや、湖口閉塞が漁船の外海との往来に支障することから、明治時代以降、毎年融雪期になると鐺沸地域の住民達は人為的に湖口を開削していた。

鐺沸の湖口は湖の東端に偏っており、西岸・南岸の湖岸住民たちは外海との往来に鐺沸への大回りをするか、さもなければ小舟を人力で引き揚げて、湖と外海の間の砂州を乗り越える作業を余儀なくされた(砂州は最低でも120m以上の幅があり、小舟とはいえ人力で乗り越えさせる作業には苦心が伴った)。湖水位上昇の被害とも相まって西岸・南岸の住民には西寄り湖口開削の希望が強かった。明治28年測量によるサロマ湖周辺のもっとも古い地図には、鐺沸湖口より西側に新湖口掘削の案らしきものも記入されているが、当時は実現していない。

1920年代には東岸住民らの反対を押し切って、西岸住民らの西寄り開削が繰り返されたものの、試掘の度に自然閉塞が生じ、試みは頓挫していた。しかし、1929年春、湧別町の住民達が西寄りにある三里番屋付近に新たな湖口を試削、4月16日に上幅4間(約7.2m)の水路開削工事が終了したところ、荒天による湖水大量流出などが影響し、4月16日夜から開削部が短期間で自然拡大、長さ350m、幅100mを超える永久湖口へと変じた(同年6月4日の実測では、この開削部はすでに幅120m、深さ7.6mの巨大な湖口となり、更に1932年6月の実測では湖口幅は最小でも460mにまで広がっていたという。1971年時点での最小幅は250mに縮まった一方、水深は23.9mへと深まった)。以降鐺沸湖口が開かれることはなくなり、湖面はほぼ常時海水面同等の水位となった。

1973年より常呂町(現・北見市)側に湖の水質改善・漁船の出入りを目的とした長さおよそ300mの第二湖口の開削工事が行われ、1979年に開通した。しかし、第二湖口は航路が幅50mと比較的狭いため、堆砂による航路閉塞がたびたび起きており、また湖口に架橋された橋が低いために漁船のマスト脱着などが必要であったことから、2008年以降は航路幅75mへの拡幅と橋の架け替えが進められており、2015年8月に従来の橋より桁下高を倍増の14mとした新橋梁が開通している。


利用

漁業法上は海面に指定されている。ホタテガイ、カキの養殖が盛んであり、そのほかサケなどの魚類やホッカイシマエビなどを産出する。

1929年の永久湖口の開削以降、サロマ湖への海水の流入は増え、湖水の塩分は海水に近いものとなり、海水魚も多く入り込むようになった。水質・水温の急激な変化は生態系を変え、かつて鐺沸地域などで豊富に採取できた天然カキは短期間で壊滅した。

1930年代以降、対策としてカキ養殖の研究が図られたが、その過程でカキよりもむしろホタテガイの養殖適地としての可能性が見出された。長年の試行錯誤を経て、1960年代以降はホタテ養殖の試みが軌道に乗り、サロマ湖で最多の水産資源となっている。

交通

湖の南岸地域には網走市・紋別市に通じる国道238号が通っている。238号沿いの佐呂間町字浪速には物産館や宿泊研修施設を備えた道の駅サロマ湖、湧別町にはレストランや遊園地を備えた道の駅愛ランド湧別がある。

かつては湖に沿って国鉄湧網線が走っていたが、国鉄再建法による特定地方交通線に指定され、1987年に廃止された。バスは東岸(北見市常呂町)では網走バスが石北本線網走駅と・北見市営バスが常呂町中心部とを結ぶ路線を、南岸(佐呂間町)では佐呂間町ふれあいバスが町内路線を、西岸(湧別町)では湧別町営バスが町内路線を運行している。湧網線廃止から2010年までは、湧網線廃止代替として網走 - 佐呂間 - 湧別町中湧別を通し運転するバスも設定されていた。